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今回は、クイーン。
クイーンと言えば、あのフレディ・マーキュリーのヒゲ、奇抜なレオタード、胸毛・・
そしてあの迫力のある一風変わったダンス!!
そして、最近はフレディが亡くなって30数年経ちながらも映画が大ヒット!!
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美しくキャッチーなメロディーとドラマティックな曲の展開・・
まさに、ステージ衣装のまま歩いていると警察官に職務質問されそうな勢いですが、1970年代のクイーンにフォーカスします。
■アルバム
・戦慄の王女 - Queen (1973年)
・クイーン II - Queen II (1974年)
・シアー・ハート・アタック - Sheer Heart Attack (1974年)
・オペラ座の夜 - A Night at the Opera (1975年)
・華麗なるレース - A Day at the Races (1976年)
・世界に捧ぐ - News of the World (1977年)
・ジャズ - Jazz (1978年)
■略歴
1971年にバンドを結成、1973年にファーストアルバム「戦慄の王女」をリリース。
しかし・・イギリスでは「曲構成が複雑で、小細工が多い」「〜の亜流」などとメディアから酷評され先行き不安なスタートを切っています。
そして・・1974年「クイーン II」をリリース。シングルカットされた「輝ける7つの海」のヒットから注目を浴びるようになります。
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そしてサードアルバム「シアー・ハート・アタック」からシングル「キラー・クイーン」が全英2位のヒットとなりファンを獲得していきます。
なお・・日本では、そのゴージャスな?ルックスや煌びやかなサウンドから音楽雑誌に取り上げられて既に大人気となっており、1975年初来日の武道館ライブは大成功でした。空港から何からファンが押し寄せてきたとの事!。
そして、1975年あの名作「オペラ座の夜」をリリース。シングル「ボヘミアン・ラプソディ」が全英1位の大ヒットを記録。
この辺りから、ようやくメディアからも非常に高い評価を得るようになります。
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余談ですが・・かのレッド・ツェッペリンも最初メディアからは評判が悪く、天国への階段が入ったノンタイトルのアルバムを発表する辺りから評価が変わります。
1976年ワールドツアーを成功させ、1977年「華麗なるレース」をリリース。
日本のファンを意識したのか・・なんと歌詞の一部を日本語で歌った「手をとりあって」が収録されています。そして予定通り!?アルバムは
イギリスや日本で1位を獲得します。
1977年イギリスでは、パンクロックの嵐が吹き荒れていました。時代の流れの影響もありクイーンもややシンプルなサウンドとなっていきます。その流れの中で「伝説のチャンピオン」「ウィ・ウィル・ロック・ユー」などの彼らを代表する名曲が作られていきます。
1978年「ジャズ」をリリース。
中でも「バイシクル・レース」は結構なじみが深い方も多いのでは・・
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1979年マーキュリー作の「愛という名の欲望」が全米1位と、アメリカを始め全世界で大成功を収め、ライヴ・アルバム「ライヴ・キラーズ」も大ヒットします。
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■1980年以降
ポール・ロジャースやアダム・ランバートが、クイーンのボーカルとなってツアーを行ったのはビビりましたが・・それは、それで非常にハマっているのが驚きでした。
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それは・・さておきフレディ在籍時のクイーンですね。
1980年代に入っても、相変わらずクイーンは人気者です。
しかし・・段々とそのころから音楽業界全体の流れもあるのでしょうが、新しいスターが次々と登場することや、ジャンルが細分化されていく流れがあり、クイーンも1970年代程のインパクトはなくなってきます。
それでもコンスタントに良い曲を発表しつづけ、発表するごとに話題を提供しつづける辺りは、流石!御大と思わせるものがありました。
■アルバム
・ザ・ゲーム - The Game (1980年)
・フラッシュ・ゴードン - Flash Gordon (1980年)
・ホット・スペース - Hot Space (1982年)
・ザ・ワークス - The Works (1984年)
・カインド・オブ・マジック - A Kind of Magic (1986年)
・ザ・ミラクル - The Miracle (1989年)
・イニュエンドウ - Innuendo (1991年)
・メイド・イン・ヘヴン - Made in Heaven (1995年)
1980年「ザ・ゲーム」をリリース。全英・全米で1位を記録。
シングルカットされた「地獄へ道づれ」も大ヒットします。
映画のサウンドトラック「フラッシュ・ゴードン」。こちらもサントラながらクイーン節を炸裂させています。
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1981年デヴィッド・ボウイと「アンダー・プレッシャー」を共作で発表。
「アンダー・プレッシャー」の洗練されたサウンドは世界中でヒットします。
1982年のアルバム「ホット・スペース」はファンク、ダンスミュージックの要素を打ち出した異色作であり、ファンやメディアから強い反発を受けセールスは伸び悩みました。
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1984年「ザ・ワークス」原点回帰的な作品となり、「Radio Ga Ga」が大ヒットしたり、「ブレイク・フリー」も強烈なPVで注目を集めています。しかしこの頃からは、メンバーの確執が表面化しバンドは解散の危機にあったようです。
「ライヴエイド」で6曲を披露。クイーンの圧倒的なライヴは、世界中で中継された国々のファンからも絶大な反響があり、世界各国でクイーンのアルバムがチャートを急上昇するという面白い現象を引き起こします。
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気を取り直した彼らは1986年「カインド・オブ・マジック」を発表。
世界中でヒットを記録。「マジック・ツアー」クイーンのツアー史上最大の成功を収ます。
1989年「ザ・ミラクル」を発表。シングル「アイ・ウォント・イット・オール」もヒットを記録。
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1991年「イニュエンドウ」を発表。シングル「イニュエンドゥ」は全英1位、
「ショウ・マスト・ゴー・オン」も全米2位と大ヒット
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■Freddie Mercury
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フレディー・マーキュリー(Freddie Mercury 1946年9月5日 〜 1991年11月24日)のソロ。
■ソロアルバム
・Mr.バッド・ガイ(1985)
・バルセロナ(1988)
実は、以外にソロ活動は少なかったりします。クイーンが解散の危機にあった1985年の「Mr.バッド・ガイ」。
1988年スペインのオペラ歌手モンセラート・カバリェとのコラボ「バルセロナ」この2枚しかありません。
1985年以前にリリースされていないことを考えると、クイーンで忙しかったのでしょうね。後の作品は、ベスト盤だったり、ボーナストラックが入ったりしたものです。
またクイーンとデビッド・ボウイのコラボという意味では、1981年シングル「アンダー・プレッシャー」がありますね。
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「Mr.バッド・ガイ」は、たびたび廃盤になっており、少々入手困難な場合もあります。
しかし・・ベスト盤に曲は入っているのでご安心ください。
廃番になった「Mr.バッド・ガイ」の代りに「Great Pretender」を入手するのも一つの手です。ジャケットが決まってますしね。
フレディー・マーキュリーの最後の恋人が書いたとされている「フレディ・マーキュリーと私」も絶版になったり再販になったりしています。
■関連映像
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1991年11月23日、フレディー・マーキュリーの自宅前で記者会見が行われ、世界中に衝撃のニュースが流れました。
私はラジオでフレディーの病気を知って驚きましたが、さらに衝撃だったのはその翌日にフレディー死去のニュースでした・・
彼の死の直後、クイーンのアルバムが再び世界中でチャートインし、「ボヘミアン・ラプソディ」はイギリスのチャートで同一曲が2度目の1位を取るという凄い現象が起きました。
フレディー自身は、エイズで段々と衰弱していた事を伏せていたため、僕からすれば、ラジオで病気を知って翌日の突然の死であったため凄まじい衝撃を受けましたが、フレディーの最後について書かれた興味深いファンの方の文章がありますので転記します。
http://m.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/q1259188637
tsubomi_0220さんのフレディーに関する質問への回答です。
エイズが発覚したのは、マジックツアー(85年)の最中と言われてます。
当時のフレディは「信じられない・・・・こんなに元気なのに」と大きなショックを受けていたようで、ツアー後は派手な生活もなりを潜め、別人のように静かな生活を送っていたみたいです。
生きていれば1992年のバルセロナオリンピック開会式で、オペラ歌手のモンセラート・カバリエや三大テノール(パヴァロッティ、カレイラス、ドミンゴ)と共演する予定でしたが、それも叶わぬ夢となってしまいました。
フレディのラストショットと言われているのが、「輝ける日々(These Are The Days Of Our Lives)」のPV。
http://youtu.be/QVtYIxYg1jg
ラストテイクは「Mother Love」。
http://youtu.be/rS1hhX3K2Uc
フルコーラス歌いきることが出来ず、最後はブライアンが歌ってます。
そしてこれが、フレディが残したラストインタビューです。
「これが最後のインタビューだ、いい物になるぞ。僕は世界を変えるより幸せでいたい。幸せなら作品に反映する。
──失敗や言い訳は問題じゃない、僕は自分自身でいたい。残った時間は人生や喜びを詰め込んで出来るだけ楽しい時を過ごしたい。・・・・録音したね?使えよ。
こんなに興奮したのは初めてだ・・・・
もう退屈してきた」
当時のフレディは「信じられない・・・・こんなに元気なのに」と大きなショックを受けていたようで、ツアー後は派手な生活もなりを潜め、別人のように静かな生活を送っていたみたいです。
病気のことは身近な人間にもずっと伏せていて貫禄たっぷりの風貌やステージ上でのド派手なパフォーマンス、バイセクシャルというスキャンダラスな性癖、パーティーでの羽目を外しまくった乱痴気騒ぎなどなど、ロックスターを地でいくような人物像に見られがちですが、死期を悟った晩年のフレディは、「どんどん曲を書いてくれ。ぜんぶ歌うから」とメンバーに告げ、少しでも多くの作品を残そうとしていたようですが、次第に体調は悪化し、日によってはまともに立って歩くことさえできないこともあったようです。
そして、エイズであることを世間に公表した翌日の1991年11月24日、45歳の若さでこの世を去りました。生きていれば1992年のバルセロナオリンピック開会式で、オペラ歌手のモンセラート・カバリエや三大テノール(パヴァロッティ、カレイラス、ドミンゴ)と共演する予定でしたが、それも叶わぬ夢となってしまいました。
フレディのラストショットと言われているのが、「輝ける日々(These Are The Days Of Our Lives)」のPV。
http://youtu.be/QVtYIxYg1jg
ラストテイクは「Mother Love」。
http://youtu.be/rS1hhX3K2Uc
フルコーラス歌いきることが出来ず、最後はブライアンが歌ってます。
そしてこれが、フレディが残したラストインタビューです。
「これが最後のインタビューだ、いい物になるぞ。僕は世界を変えるより幸せでいたい。幸せなら作品に反映する。
──失敗や言い訳は問題じゃない、僕は自分自身でいたい。残った時間は人生や喜びを詰め込んで出来るだけ楽しい時を過ごしたい。・・・・録音したね?使えよ。
こんなに興奮したのは初めてだ・・・・
もう退屈してきた」
■関連書籍等
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■楽譜、バンドスコア
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