まずはその背景として60年代後半から70年代初期にかけて英国のロックシーンでは、「黒魔術ブーム」なるものが存在していたことを知っておく必要があると思いますので書いておきます。

この写真の男が、かの有名な「20世紀最高の魔術師」と呼ばれたアレイスター・クロウリー:Aleister Crowley (1875–1947)です。
鏡に自分の姿を映らない様にしたり様々な魔術を使えた人物と言われており、「汝の欲することこそ、全ての掟となる。」という自分の信条に従い冒険と退廃の人生を送りました。
彼は作家であり登山家でもあり、「ゴールデンドーン:黄金の夜明団」脱退後、自分の教団を作り、麻薬を常用し、何人もの女性と平然と暮らし、セックスマジックで悪名を高めました。ある名門の婦人がクロウリーの寺院を訪れたことが発覚しロンドンの社交会を驚かせ警察に追われて、放浪し1947年にヘロイン中毒で生涯を終えるという凄まじい人生でした。
もちろん、オジーの「ミスター・クロウリー」はクロウリーがモチーフになっている歌詞。
その他、彼のファンにはジミー・ペイジ、デヴィッド・ボウイ、映画監督のケネス・アンガーらがおり、ビートルズの「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のアルバムジャケットにもその姿が写っています。
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また彼はトートのタロットでも有名であり、1944年タロット解説書『トートの書』の挿絵として発表。しかしカードとしての出版は彼の死後1969年。いまだにタロット愛好家からの評価は高い。
一応、日本でも80年代に彼の著作が多数出版されたので紹介しておきます。
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特に、レッド・ツェッぺリンのジミー・ペイジは彼の大ファンで、彼が住んでいた屋敷や服を購入するなど大のクロウリーコレクターであったことは非常に有名な話です。
しかし、実際に音楽によって黒魔術や悪魔への傾倒ぶりを表現していたのは、ブラック・サバスとブラック・ウィドーでした。
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■ブラック・サバス
ブラック・サバスの前身バンド「EARTH」は、1967年、英国バーミンガムで結成されます。
「EARTH」は、ジャズやブルースをベースとしたプレイをしていたが、他に同名のバンドがあり、間違ってブッキングされるなどあったらしく、バンド名ブラック・サバスと名乗るようになったのは69年になってからのこと。
60年代は、ヒッチコックの映画や、ジョージ・A・ロメロの「ナイト・オブ・ザ・リビング・デッド」などの恐怖映画ブームもあり、恐怖映画から得たアイディアから、「人々を怖がらせる音楽をやってみたらどうだろう。」というのがそもそもブラック・サバス命名のきっかけの様だ。
メンバーは、以下の通り。
●オジー・オズボーン(ジョン・マイケル・オズボーン)(Vo.)
●トニー・アイオミ(G.)
●テリー・ギーザ―・バトラー(B.)
●ビル・ワード(D.)
そして、69年にVIRTIGOレーベルと契約し、70年2月13日の金曜日・・・つまり「13日の金曜日」にデビュー!!
ようは・・・「EARTH」で失敗したが、その反省を踏まえて音楽業界で生きていくには、バンド名や話題性など商業性を考えての上でのバンド名やイメージ戦略だったと思われるのですが、その期待どおりオカルト的なイメージ戦略で大成功するのでした。
デビューアルバムは、バンド名の通り「ブラック・サバス」
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当時の英国は、オカルトブームだったこともあり、タイトル曲を中心にその暗くて重たいオカルトチックな楽曲とアルバムの絵柄のオカルトイメージは話題となり、全英チャートの8位まで上昇。
もちろんその戦略だけではなく、「EARTH」時代に培った演奏力・作曲能力があったためツアーが盛況であったり、売れたことは言うまでもない・・ですよね。
セカンドアルバム「パラノイド」は、70年6月にまず先行してシングル「パラノイド」がヒットし、9月に発売されたアルバムは全英チャートの1位を獲得。
サードアルバム「マスター・オブ・リアリティ」は予約だけでゴールド・ディスクを獲得。
「パラノイド」は、ノリのよい印象的なギターリフとメロディーであるため、ライブでプレイされるブラック・サバスでは一番有名な曲だと思うが、この曲とアルバムの大ヒットによって、ディープ・パープルや、レッド・ツェッぺリンと並ぶ人気バンドに。
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そして、彼らの最高傑作と評判の高い「Black Sabbath Vol.4」が72年にリリース。
オカルト、ドラッグ、黒魔術など暗くてマニアックなイメージであるが、彼らはメイン・ストリームとなることに成功。
73年には、「サバス・ブロディ・サバス (邦題:血まみれの安息日)※」をリリース。
※しかし・・・なんちゅう邦題?。但し、イメージ戦略上、上手い邦題だとも言える。
当時の時代背景を考えると求められていた音楽を彼らが作ったという事がいえるかもしれない。
60年代後半にドラッグが流行するが、あまり危険性が知られておらず結果的に若くして命を落としたミュージシャンも多い。
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セールス的に成功し74年から75年にかけて行われたアメリカン・ツアーを実施し、ディープ・パープル等と共演した「カリフォルニア・ジャム」では20万人〜30万人動員したと言われている。
そして、「サボタージュ」をリリース後に、プロレスやボクシング興業が行われ「世界で一番有名なアリーナ」、「格闘技の殿堂」と言われるマジソン・スクエア・ガーデン公演を成功させている。
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オジー脱退後にヴォーカルにレインボーのロニーが加入してから、復活。
ただ、97年のOZZFESTにオジーがボーカルとして参加したリユニオンは、なかなかのパフォーマンスだ。
そして、ついに2013年35年振りにオジーが参加した待望のスタジオ作がリリースされた!
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また、トニー・アイオミの激動のキャリアを綴った自伝
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そしてサバスファンのギタリスト必修の本。
使用機材、ディスコグラフィー、インタビュー等充実した内容となっています。
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■Ozzy Osbourne
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オジー・オズボーン(1948年12月3日~)は、そもそも1967年にイギリスのバーミンガムで結成されたブラック・サバスの人気ボーカリストでした。
ところが、70年代後半に入ると音楽的方向性が迷走し低迷期を迎えます。そして、77年にオジーが一度目の脱退。79年に完全離脱。
その後、サバス自体はボーカルに元レインボーのロニーが加入し、久々に世界中で大ヒットしていきます。
一方、オジーは自分自身がやりたい音楽性を求め新バンドを結成するために、レインボー、ユーライア・ヒープの元メンバーを集め、ギタリストを募集したのでした。
そこへ、7歳からアコースティック・ギターを弾き始め、募集時にはクワイエット・ライオットのギタリストであり母の音楽学校でギターの講師(30分で8ドル)をしていたランディが、地元のベーシストがオジーのオーディションを受けたがギタリストを探していると知り母親や友人の勧めもあって、受かる自信など全くなくオーディション受けた。
ではオジー側からは、どうだったのか?
オジーがオーディションの際に酔っぱらってソファーで寝ていると、誰かが起こそうとするので、見てみると可愛い女の子のような天使(ランディ)が立っていた。
その天使がオーディションを受けに来たランディー・ローズ(もちろん男性)で、一発で気に入りギタリストとしてランディを採用したという運命的なエピソード。
まさに天使(ランディ)と悪魔(オジー)が同居する凄いバンドが誕生した瞬間でした。
そして、「Blizzard of Ozz」(邦題:血塗られた英雄伝説)が1980年に発売、日本で半年遅れで1981年に発売されるのでした。
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自らを悪魔の化身に見立てたキャラクター作り、サウンドはヘビーながらも親しみやすいメロディーライン。
特筆すべきは、ランディー・ローズのギター・プレイ。
「アイ・ドント・ノウ」、「クレイジー・トレイン」のたたみ掛けるような躍動感のあるリフ。
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メロディアスな「グッド・バイ・トゥー・ロマンス」舞うような極めて美しいギターソロが展開されている、クラシカルで極めて美しい「ディー」。
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激しいリフの「自殺志願」、そして・・・何といってもこのアルバムの一番の聴きどころの曲となる「ミスター・クロウリー」・・・特にランディーのギターソロがクラシカルかつ非常にドラマティックな展開、素晴らしいメロディーライン、テクニックとにかく目茶目茶カッコいい!!!
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多くのギター・キッズは、まさにランディーらしい特にこの曲の2回目の名ギターソロに感動したと思う。
僕自身がそうだったし、世界中のロックファンがニュー・ギターヒーローの登場に感動したんだと思う。
彼は、ギタープレイヤー誌でブライテスト・ホープ・ギタリストに選ばれて世界中が彼のギタープレイに期待した。そしてセカンドアルバム「Diary Of A Madman」が発売。アメリカン・ツアー前に短期間で録音されたためランディー自身は不満足なギターソロの曲も数曲あったようだが、「オーバー・ザ・マウンテン」、「フライング・ハイ・アゲイン」は劇的で華麗なギターソロが展開されており本人も凄くギター面で気に入っていると雑誌のインタビューで答えていた。
しかし、「ダイアリー・・・」のギターソロは不可思議な音階が使われており、なんと・・・ランディが作った音階の幻想的なギターソロが展開されている。流石・・天才ギタリスト。
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ところが、録音後のツアー中にセスナ機事故により82年3月19日に・・・残念ながら他界。(涙)
本当に、綺麗で素晴らしいギタリストでした。もし、生きていればどんなに凄いギタリストに成長したことか・・・
そして、ランディーの5周忌にランディー在籍時の1981年カナダツアーのライブアルバム「Tribute」をリリース。ランディーのギターソロを含め凄まじいパフォーマンスを聴くことができます。
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彼は、64年の白いレスポールカスタムと白の水玉模様のフライングV、ジャクソン製のランディーVをメインで使っていた。ヴァン・ヘイレンのスタイルを吸収消化した独自のプレー。いつまでも心に残っているギタリストです。
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最後に、ランディ・ローズ写真インタビュー集”TRIBUTE”に記載されているJOSEPH BOSSO氏のオジーへのインタビューを記載します。
このインタビューは、”TRIBUTE”が発売されたタイミングのものです。
重要なのは、これだけはみんなにわかってほしいと思っているんだけど、ランディを利用してひともうけしようなんて思っちゃいけないってこと。
俺のやることは、いつもあれこれ言われているけど、そんな気持ちで発表したんじゃないぜ。俺はランディが大好きだった。
兄弟みたいに思っていたよ。
サバスを脱退した時は最愛の状態でね。すべては終わったと思っていた。ひどいものだったぜ。そんな時にランディと出会った。
シンガーで何ひとつできないヤツが、ミュージック・ビジネスの世界で生きていくのは難しいことなんだ。
自分で書いた曲をハミングしたり、歌って聴かせたりすることはできる。
でも、他の人にちゃんとアイディアを伝えられなくちゃだめだろ?ランディはアイディアを取り上げ、あれこれやってるうちに、とてつもないものに仕上げてしまうことができた。”I Don't Know”のギター・パートを考えて来た時なんて、信じられなかったぜ。こんな風にプレイする奴が、遂に現れたと思ったね。
ランディは、まれに見る素晴らしいミュージシャンだった。真面目でひたむきなギタリストだったけど、楽しいヤツだった。
毎日を楽しくしてくれたよ。ジェントルマンなんだけどひょうきんでね。
ランディの死については、不条理だと思うことばかり。俺はものすごい怒りを感じた。2年ぐらい自分に対して怒っていた。誰かれかまわず八つ当たりしてね。ランディはクレイジーな男じゃなかった。そんな男じゃない。ランディは、ただ若くして驚くべき才能を持ったミュージシャンだった。
だから、納得できないんだ。ランディは、才能のすべてを発揮しないうちに、この世を去った。
ランディについての重要な真実は、ランディは俺の大切な友人だったということ。
そして、ランディのことを考えない日はないということだ。ランディは、俺の目の前に、もう一度新しい世界を開いてくれた。
もう一度、毎日を楽しくしてくれた。ランディのことを考えると寂しくてたまらない。ランディは、俺に本当にたくさんのものを与えてくれた。みんなにたくさんのものを与えてくれた。それなのに、それが自分に返ってくるのを見ることはできなかった。自分でまいた種を、自分で刈り取ることができなかったんだよ……」
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■Jake E. Lee
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82年3月にランディ・ローズが事故死したことにより、ギタリストが不在となり、ライブには、バニー・トーメ、ナイト・レンジャーのブラッド・ギルスがヘルプ的に参加しました。ブラッド自身は、ナイト・レンジャーが正式にメジャーデビューするためにバンドに戻ります。
このアルバムは、ブラッドギルスを迎えた全曲ブラック・サバスのナンバ−という貴重なライブ作品です。
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しかし、正式なランディの後釜となったのはオジーのオーディションに受かった日系人(母が日本人)のジェイク(Jake E. Lee)でした。
彼の略歴
57年2月アメリカ、ウェストヴァージニア州出身で6歳の頃からピアノを始め、14歳からはギターを弾くようになりデビュー前のラットに参加、その後ラフ・カットを経てオジーのバンドに加入。
83年1月以降のツアーに参加後に、「BARK AT THE MOON」で鮮烈なデビューをします。
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このアルバムの聴きどころは、タイトル曲である1曲目の、「BARK AT THE MOON」、5曲目の「Centre of Eternity」だと思います。しかし、なんといっても「BARK AT THE MOON」・・・・この曲の斬新で鮮烈なギター・リフに一発でやられました。
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単純に、個人的な意見かもしれないけど、この曲のギターリフほどカッコ良いメタルのギターは無い!と言える程、スピード感と心に残る素晴らしいリフ。あまりの凄さに何回もこの曲を聴きたくなる。
そして・・・スリリングでドラマティックな、圧倒的にテクニカルなギターソロ!!!
ルックスも、日の丸が入ったバンダナをつけたジェイクは目茶目茶カッコ良かった。
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ランディの後釜ということで、非常にハイレベルな期待が普通は物凄いプレッシャーになると思うし、ランディ程才能のあるギタリストはなかなか存在しないため、どんな作品だろう??・・・と蓋を開けてみると・・
期待を遙かに上回る圧倒的に凄いギタリストだった。
その当時、LAを中心には技術至上主義と言えるほど先鋭的にテクニックを追及するメタル系のギタリストが集中しており、その中でもジェイクは突出した感性、最先端のテクニック、オリジナリティーを持っていたため、いきなりギター・ヒーローに。
そして、次のアルバム「THE ULIMATE SIN」、前作での圧倒的なギター・ワークからの期待に十分に応える全編に渡って快活な目茶目茶カッコいいギター・リフに、前作を上回るトリッキーなテクニックを取り入れたスリリングなギターソロ!!結果的に大ヒットに繋がりました。
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しかし、残念ながらジェイクはオジーと意見の相違により脱退。その後はブルースロックをベースにしたバッド・ランズやソロ活動を続けていきます。
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13年12月に久々に「RED DORAGON CARTEL」というバンドを結成し、アルバムを発売しました!!
またまた活躍してくれそうで非常に期待しています!
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オジーでの彼の素晴らしいプレイが好きで、脱退後も彼の作品を聴いていましたが、90年代後半から全く話題にあがる事がなくなり、どうしているのだろうとずっと思っていました。
そんな彼の空白期間に関するインタビューが、ヤングギター2014年1月号に掲載されていたので記載しておきます。
※インタビューと文、Jun Kawai氏。
●YG:96年にソロアルバムのA FINE PINK MISTを出した後、どういった活動をされていたのですか?
あまり動きはなかった。あれを出した後は、ジェイクである事がクールではなくなっていたんだ。グランジブームがやってきて…つまり俺というアーティストの棚持ちが悪くなった。
どんなアーティストにも、ギタリストにも鮮度というものがある。「ジャーン!俺は凄いギタリストだよ!若くて魅力的で親しみ安いだろ!」…大抵のギタリストはそういうアティチュードで出てきて、自分のキャリアを確立していくわけだけど、いざ確立してくると、もう新鮮な存在ではなくなるんだ。みんなは新しいギタリストを探すようになる。
それで、「ああ、こいつはもう知ってる」と、さらにアーティストの寿命が縮むんだよ。で、FINE PINK MISTの後、俺は完全に終わってしまった。俺はクールじゃなかったのさ。
●YG:では、今後の予定は?
レッド・ドラゴン・カーテルのアルバムが12月に出た後は…。この後もすぐにフェスティバルやライブが待っているんだ。
それから今、5月に日本に戻って来られるかどうか検討している所なんだ。上手く行くといいね。
もしダメでも、何とか方法を見つけるよ。日本には必ず戻ってこなくちゃ。ここでプレイするのが好きだし、きっと上手く行くはずさ。
日本の事は忘れて無いからね。そしてツアーが一段落したら、またアルバムを作るかもしれない。
●YG:最後に読者にメッセージをお願いします。
こんなに長い年月が経ったのに、まだ俺の事を気にかけてくれる人がいるなんて、身に余る幸せだね。
是非CDを気に行ってもらいたいし、きっと好きになるはずだ。
新鮮に感じる所もありながら、かつ俺らしい作品だから。知り合いに聴かせたら、みんな「ジェイクらしい!だけどこれまでにやってきた事とはちょっと似てないね」と言ってくれた。
作品はロックでハード、そこは間違いない。こんなに長い間待っててくれてありがとう。もう俺は”オールド・ギター”だから、この雑誌に掲載されるなんておかしな気はするけど、心は”ヤング・ギター”だよ(笑)
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■Ronnie James Dio
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ロニー・ジェイムス・ディオ
1957年バンド活動を開始。1962年には「ロニー・ディオ・アンド・ザ・プロフェッツ」というバンドでプロ活動を開始。
つまり、彼はビートルズやストーンズと同時期よりプロミュージシャンとして半世紀もの間音楽活動していたわけである。
彼を有名にしたのは、ELFというバンドでDEEP・PURPLEの前座を勤めている時にリッチー・ブラックモアに気に入られ、パープルをリッチーが脱退後に作った新バンドRAINBOWの初代ボーカリストとしての活躍により世界的な人気ロックシンガーとなった。
彼は、身長は161cmと小柄ながら、美しい歌声も出せるし、ハードロックのギターに負けないメロディアスな迫力のある歌も歌いこなせる圧倒的に存在感のあるカリスマ的な稀有なボーカリストだった。
有名な活動としては、ELF、RAINBOW、BLACK SABBATH、1982年に自らのバンドであるDIOを結成。2006年にDIOと並行してBLACK SABBATHの名義を変更したHEAVEN AND HELLでも活動した。
・ELF (1972)
・Carolina County Ball (1974)
・Trying To Burn The Sun (1975)
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RAINBOWでは、当初リッチーがエルフのメンバーを取り込む形でのスタートだったが、ロニー以外はクビに…、
しかし、虹を翔る覇者から、バビロンの城門まで、ロニー、リッチー、コージー・パウエルと最強のトライアングルを作っていた。
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RAINBOW時代には、スターゲイザー、ライトインザ・ブラック、ロングリブロックンロール、キル・ザ・キングなど多くの名曲がある。
・銀嶺の覇者 - Ritchie Blackmore's Rainbow (1975)
・虹を翔る覇者 - Rainbow Rising (1976)
・レインボー・オン・ステージ - On Stage (1977、ライブ)
・バビロンの城門 - Long Live Rock 'n' Roll (1978)
・ファイナル・ヴァイナル - Finyl Vinyl (1986、ライブ)
・虹色魔宴〜ライヴ・イン・ジャーマニー1976 - Live in Germany 1976 (1990、ライブ)
・ライヴ・イン・ミュンヘン1977 - Live In Munich 1977 (2006、ライブ)
・Deutschland Tournee 1976 (2006、ライブ)
・Live In Cologne (2007、ライブ)
・Live In Düsseldorf (2007、ライブ)
・Live In Nurnberg (2007、ライブ)
・ポリドール・イヤーズ - The Polydor Years: 1975-1986 (2007、コンピレーション)
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RAINBOWを抜けてサバスに、という流れはサバスはオジーのイメージが強いため、僕の中では何か違和感があったのだが、サバスに入って1枚目のHEAVEN AND HELLはむしろサバスのカラーよりも、ロニー色が強く感じられた。
これまでのサバスとは曲調も変化し、スピード感のあるハードでスリリングな楽曲群、ネオン・ナイツ、チルドレン・オブ・ザ・シー、ダイ・ヤングなど曲の良さもさることながら、ロニー節が炸裂している。
・ヘヴン・アンド・ヘル - Heaven and Hell (1980)
・悪魔の掟 - Mob Rules (1981)
・ライヴ・イーヴル - Live Evil (1982、ライブ)
・ディヒューマナイザー - Dehumanizer (1992)
・ベスト・オブ・ディオ・イヤーズ - Black Sabbath: The Dio Years (2007、コンピレーション)
・ライヴ・アット・ハマースミス・オデオン - Live at Hammersmith Odeon (2007、ライブ)
・The Rules of Hell (2008、ボックスセット)
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サバスのメンバーとの確執により、自分自身の新バンドDIOを結成する。
ヴィヴィアン・キャンベルのいかにも80年代のメタルらしいスピード感のある強烈なギターリフ、スリリングなギターソロは初期の2枚の名作を生み出した。
特に、個人的にはスタンド・アップ・アンド・シャウトとウィー・ロックを気に入っている。
一方で、ギタリスト候補として、オジーで活躍したジェイクやインギーがあがり、実際2人とも噂ではなくロニーとコンタクトしていたため、80年代前半にもしも、ジェイクやインギーと組んでいたらと考えると惜しい気もする。
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1983年6月号のミュージック・ライフに彼が全盛期の頃のインタビューが掲載されていたため、一部転記させていただきます。
丁度、サバス脱退後にDIOの1stをリリースしたタイミングでのインタビューです。(インタビューア 林 洋子)
●トニー・アイオミやギーザ―・バトラーは、サバスは自分のバンドだ!という態度を取り続けた。勿論、その事実は認めるけど、僕とヴィニー・アピスが入って、新生ブラック・サバスのつもりでいたのに、僕達のあり方まで口を出し、コントロールするやり方にカチンときたんだ。
ライブ・アルバムのトラック・ダウンで再び意見が衝突しちゃってね。これ以上どうしようもないと思って脱退したんだ。
僕には2年前程前からソロ・アルバムを作る話があったんだけど、それも摩擦の原因になったかもしれない。
○そのソロ・アルバムが、結果的にはニューグループ”ディオ”になったわけね。
●うん、僕がブラック・サバスを辞めると言ったら、ヴィニーも辞めたいというんで、じゃあ2人でやってみようかということになって、ソロ・アルバムに着手した。ヴィニーとは最初から気があってたから、彼がブラック・サバスを辞めると言った時は賛成したよ。ベースのジミー・ベインは旧友だったから声をかけた。で、ジミーが目をつけていたのがスウィート・サベージにいたヴィヴィアン・キャンベルで、この4人でディオができたわけさ。
○デビューアルバム「ホリー・ダイバー」は、全曲あなたが書いたの?
●タイトル・チューンとドント・トーク・トゥ・ストレンジャーは全部1人で書いたけど、他は誰かがアイディアを持ってきたり、リフやアレンジに貢献してたから、どの曲でも一番貢献度の大きかったメンバーをクレジットしてあるよ。
●僕は音楽というものにイマジネーション、日常とは違う世界を求めてきたし、明日のオカズの心配とか笑、恋愛関係の事を歌いたいとは思わない。僕は昔も今もアーサー王やキャメロットの世界、時代が好きだし、騎士道精神に溢れた紳士達が美しい女性を敬愛し、彼女達を守るために悪と戦うーそういう世界の秩序、正義、あの時代の服装、スタイルが好きなんだ。
・情念の炎〜ホーリィ・ダイヴァー - Holy Diver (1983)
・ラスト・イン・ライン - The Last in Line (1984)
・セイクレッド・ハート - Sacred Heart (1985)
・インターミッション - Intermission (1986、ライブ)
・ドリーム・イーヴル - Dream Evil (1987)
・ロック・アップ・ザ・ウルブス - Lock up the Wolves (1990)
・ダイアモンズ-ベスト・オブ・ディオ - Diamonds – The Best of Dio (1992、コンピレーション)
・ストレンジ・ハイウェイズ - Strange Highways (1994)
・アングリー・マシーンズ - Angry Machines (1996)
・Inferno - Last in Live (1998、ライブ)
・マジカ - Magica (2000)
・The Very Beast of Dio (2000、コンピレーション)
・キリング・ザ・ドラゴン - Killing the Dragon (2002)
・マスター・オブ・ザ・ムーン - Master of the Moon (2004)
・Evil or Divine - Live In New York City (2005、ライブ)
・ホーリー・ダイヴァー・ライヴ - Holy Diver - Live (2006、ライブ)
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ヘヴン・アンド・ヘル
ライヴ・フロム・レディオ・ミュージック・シティ・ホール - Live from Radio City Music Hall (2007、ライブ)
ザ・デヴィル・ユー・ノウ - The Devil You Know (2009)
ネオンナイツ30イヤーズ・オブ・ヘヴン・アンド・ヘル - Neon Nights: Live At Wacken 2009 (2010、ライブ)
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そして、彼の集大成。
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ザ・ロニー・ジェイムズ・ディオ・ストーリー:マイティア・ザン・ザ・スウォード 新品価格 |

2009年11月、ウェンディ夫人はロニーが胃がんを宣告されたことを発表。
その後、複数回に渡る放射線治療を含む、数種類の治療を受けた。ヘヴン・アンド・ヘルは今月上旬、ディオの体調を理由に予定されていたヨーロッパ・ツアーの中止を発表した。そして、2010年5月16日早朝に死去したことが明らかになった。
長年のマネージャーでもあるウェンディ夫人が公式サイトで発表した。享年67歳。
「今日、私の心は失意に満ちています。ロニーが午前7時45分に死去しました」とウェンディ夫人のメッセージには書かれていた。「彼が穏やかにこの世を去る前に、たくさんの友人や家族が直接別れを告げることができました」。
「ロニーは自分がどれだけ皆さんに愛されていたかをわかっていました。皆さんが私たちに与えてくれた愛情や応援について、非常に感謝しています。この辛い別れに向き合うべく、どうか数日間は私たちをそっとしておいてください。彼が皆さんのことを愛していたこと、そして彼の音楽が永遠に生き続けるということを、どうかわかってあげてください」。
合掌。